メランコリーと思考

深い憂鬱と鋭利な思考が、表裏一体であるのは確かなことだ。理由は知らない。少なくとも、極度な孤独感なしに優れた思考はできない。真面目であるというわけではない。内面的に存するある種のリズムのようなものに受動的になるだけに過ぎない。尤も憂鬱症になってしまっては、元も子もない。外交的な明るさが、突如消失してエネルギーが内側に集中する時期のほうが思索に適している。同時に競い合う二つのものが必要である。この二重性が大きく思考に寄与している。誠に生物的なリズムによって生きている。憑依する性格の人間は、須く危険な道を歩む。もしも、外交的な明るさがまったくなかったとしたら、ほんとうの憂鬱症になっていただろう。つまり、精神の均衡が絶妙なお陰で辛うじて外見上は健康を保っている。この自分のデモーニッシュな部分は好き嫌いに関係なく、初めからあるもので、幸か不幸かどうすることもできない。普通の人は、まさか自分が、何者かに動かされているとは思わないだろう。これを実際に口にするならば、狂気の称号が与えられるだろうから。だが、構造主義やフロイトの考えでは、主体は純粋な主体として独立しているのではなく、見えない構造や無意識に多大な影響を受けつつ主体として、あたかも主体らしきものとして自立していることになる。自分が自分の唯一の主人であると主張する方が、現代の理論から逸脱している。話をもとに戻すと、憂鬱と思考に密接な関係があるのは確実だと思うが、その理由は全然わからない。ただ才能の育成される場所らしいことはおよそ想像できる。憂鬱は闇であるが、闇だけだと意味がなくなる。憂鬱症そのものでは単なる病気である。ここに光としての明るさが同居するから価値が生じる。一個の人格に二つの明暗があるからこそ意味がある。換言するならば、矛盾を一身に備えることである。だから、私は矛盾こそ本質的な人間の本性だと勝手に思っている。矛盾しているからこそ正気が保たれるのではないか?

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