多面性と普遍性

多面性なしに生き続けることはできない。ひとつの形式やパターンだけではすぐに飽きてしまう。それにすぐ陳腐になる。思いつく例をあげてみよう。まずシェイクスピア。個々の作品が独立しており、まるで複数の人物が書いたかのようだ。これをひとりでやったのがシェイクスピアである。もうひとりはドストエフスキー。ポリフォニー文学と呼ばれる。登場人物が、それぞれ独立性を保ち、作品の中で自由に動き回る。これは所謂神の視点で書いていないことを意味する。神の視点で書くと、絶対的な作者が登場人物を操ることになるが、この方法では創造的にはならない。ドストエフスキー自身、初期に「二重人格」(厳密には二重身?)という不気味な作品を書いている。主人公が、同一人物であるもうひとりの主人公に乗っ取られてしまう。「罪と罰」や「カラマーゾフ」でも登場する人物は、まったく異質な性格をもっている。作者から独立している。ドストエフスキーは、これらの登場人物を完全なかたちで操っているとは思えない。もし操るとしたらつまらない作品になっていただろう。あたかも舞台に多種多様な登場人物をばらまき、その自由な言動に寄り添っているだけの役割に徹している。ここでは形式というものが存在しない。パターンの延長線上にあるのと全然違う。むしろパターンを壊しながら、次の展開が開ける。人格が一定ではなく、複数の人格が競い合うような書き方を、この二人の文豪はやっているのは偶然ではない。

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