活字文化の二極化

18世紀にライプニッツが普遍数学という体系を夢想した。思考を計算で導くものと彼は考えていたが、現在のコンピュータや人工知能が、それに相当しているようの思う。ここで、急に話を飛ばす。
大デュマの小説創作の仕方は、小説工場と呼ばれていた。漫画のように、複数の人材を使って小説作品を制作する。これは現代的な手法だと思う。人工知能という強力な労働力を投入すれば、一人の作者が、一つの作品を執筆するという従来の慣習は過去のものとなるかもしれない。未来の作家は、協働作業で作品を創作するのではないか。それも、人工知能の手を借りれば、一日に何百から何千何万もの作品が大量生産される。物語の膨大なパターンを人工知能が学習すれば可能になる。文学作品というよりは、商品や製品に近くなる。つまり芸術の範疇から逸れるものが出てくる。小説に限らず、書きもの一般が、人工知能によって、大きく変革するのではないか。それに拍車をかけるものが、自動翻訳で、その性能は日進月歩であるから。活字というとひとりで考えて書くものとのイメージが強いが、もっと気軽で軽いイメージになる可能性があると予想する。例えば、ベストセラー本などは、近い将来に人工知能で書けるようになる。取捨選択と編集修正のみ人間が介入すればいいでしょう。
反面、価値の高い書き物が、生き残り大衆化された読み物とはまったく別の地位を築くのではないか。このようにして、活字文化が大きく二極化するのではないか。もっと広い視野でみれば、活字文化だけに限らない。

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