備忘録「意味ベクトル」普請中
「意味に方向がある」ものとする。「意味の矢」と言い換えよう。口腔から「意味の矢」としての言葉が発せられる。意味の保有者は自前で作成された意味を相手に向かって射る。ただし、射られた相手が意味を受け取った場合にのみ、遡って意味の保有者と呼ばれたものの意味の本性が明らかになる。つまり最低限のコミニュケーションなしに意味の存在はあり得ない。私の産まれたての発想は、方向(ベクトル)にある。これから成熟させていく段階に過ぎないのだが、意味と方向(ベクトル)をひとつの概念と捉えるならば、説明の容易になるものが沢山あるのではないかと思う。概念をひとつにするなら意味方向あるいは、意味ベクトルという術語を導入しよう。想像して欲しいのは、飛ぶ矢である。コミニュケーションの総体は、一斉にところ構わず矢が放たれた状態のモデルとして表現できそうだ。例えば二つの矢が逆方向に飛んでいる状態は、意味のすれ違いどころか、なにもなかったことに相当する。検討すべきは、ひとつの矢が放たれることに意味はなく、といっても矢のことを意味と既に言ってしまっているのだが、もうひとつの矢との接触があって初めて、先の放たれた矢に意味が生じることである。閉じられている意味は意味ではない。自己の中に意味が生じるというが、私はこれを幻想と呼ぶ。矢が放たれているが、受信されていないのだから意味はなくやはり幻想に過ぎない。意味に方向が加わると意志というニュアンスに近くなるが、意志とはまったく異なることに注意。意味に方向性をもたせた概念をもっと深く研究することにしよう!
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