メモ「主語の不可能」

「人間は」とか「私は」とかという主語を使うから説明できなくなる。これほど多義性に富んでいる主語はない。ひとつの塊とするから理解がおかしくなってしまう。「人間は…」という表現するとき、本来、いくつもの要素を含有した、決してまとまらない不安定なものを無理矢理に「人間は…」と語っているのだ。言語の限界を示唆している。記号のほうがより真実に近い。つまり、「人間は…」という表現は、例えば「ABCD…1234…⁈⁉︎…¥&…#@……は…」という、まったく意味不明な主語を表しているだろう。私という主語についても同様である。なぜなら、人間とは、もともとわからないものだし、私についても等しくわからないものだから。実際には、このような無秩序で意味不明な主語(記号)は使われずに、あたかも事前に知っているかのように「人間」や「私」が固定された意味を含んだひとつの塊(名詞)として使われている。無限の意味を内包したもの、あるいは、意味不明なものを、わかったものとして「人間」「私」を主語として語られる言葉は曖昧すぎるほど曖昧であるはずだ。少なくともこれらを主語とした場合に真実が語られる望みは少ない。それなのに、私たちは何の疑問もなく、語る権利が保証されているものとして、あたりまえのように「私は」「人間は」と使用していて不思議に思うことはない。主語にできないものを、主語にして語っている。言ってみれば、不可能な言語活動をしているのにも拘らず平気でいる。これこそ不思議というより他ない。もっと敷衍するならば、無限を主語とする場合と、有限を主語にする場合があって、「人間」「私」は、無限を主語とした場合にあたるが、このとき、いったい、何を語ることができるのだろうか?収束していない発散しているものを主語にできるのだろうか?

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