新しい習慣
美しい草花を見つけるのは容易だ。悪いことではないが誰でもできる。それすらしない人もいる。ありふれた日常の一コマだが、話を飛ばそう。将来に美しい花を咲かせるであろう草花を探すことに専念したい。綺麗に咲いている花は、もう峠を越している。みなが殺到している。ぎゅうぎゅう詰めである。混雑している。一目見ようと行列をつくって群がっている。美術館に行くようなものだ。いいことなんだろうが、無思考である。いいものと保証つきの作品を鑑賞すれば安心と満足で満たされるが、あらかじめ知っているものを再確認するに過ぎない。もっとも、初期の段階では本物で眼を肥す必要があるのは当然だが、もう次に進まなければならない。いつまでも山の頂ばかりに気をとられているのは賢明とは言えない。注目されている真っ只中をさらに注目することに、それほど価値があるとは思わない。「何が言いたいのか?」。次に咲く美しい花を予測して探すのだ。どんな格好をしているのかまだわからない。みすぼらしい貧相な様相を露わにしているかも知れぬ。醜いアヒルの子みたいに。だけども、ここに着目することができれば素晴らしいことだ。まだ不安定で未熟な状態にある、将来、期待される価値に注意を向ける人は少数派である。誰もが容易にできないからこそ価値がある。リスクが伴うだろう。周囲の批判もあるだろう。そうみられるのは至極当然なことで、常識の枠に囚われているから非常識にみえる。しかし、常識から新しい進歩がなされた試しがない。一般社会では常識的な判断が信用に直結するものだから、やたらと非常識をおし通すのも気がひける。うまく均衡を保ちつつも、未来に孵化するであろう、いま現在は沈黙している黄金の卵に注意を向ける習慣は、きっと大きな見返りが期待できる筈。注目されているほうにある視線を、まだ注目されていないものに向ける。
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