二刀流

常識から出発すると、解らないことが沢山あるけれど常識を忘れて、確実な真理から導きだすようにすると理解に近づける。常識を大きな袋に例えれば、その先端は常識から跳躍したものでできている。常識は日常の相互理解を助けるものであるから、これを無視すると信用を失う危険性がある。常識とは、みんなが了解しているから常識と言われるのであるが、みんなが了解しているものは真理とは限らない。常識でわかるのならば、何も苦労して学ぶ必要はないはずだ。学ぶとは、常識から離れている知識を獲得しようとするからこそ、わざわざなされるべきものなのだ。だから学ぶとは非常識を理解することといっても過言ではない。それは共通の理解また一般の理解からいったん距離をおくことになるだろう。非常識を理解するようになれば、非常識な考え方をするのが習慣になる。この習慣から得られる果実は甘いけれども、もう一度、最初にあった位置に戻らないといけない。説明と証明はこのためにある。現実という惑星の軌道から離れて、とんでもない地点に到達してしまう。そこでみた真理を説明するためには、再びもとの惑星まで帰還しなければならない。発見した真理をそのまま差し出しても、そこに振り向く視線は期待できない。だから常識と非常識を同時に持ち合わせる二刀流でなくてはならない。もしそうでないとすれば、常識という狭い世界しか知らない人になるか、若しくはだれにも理解されない異人になってしまう。一応の判断として言動は常識的であることが望ましく、頭の中は非常識であるのが良いのではないか?矛盾した人という評価はマイナスになるだろうが、むしろ矛盾したところがないほうが発展的な人間とは言えない。ちなみに現在の常識とは過去に非常識であったものが、時間をかけて人口に膾炙したものである。非常識が理解される環境が整ってから熟したのち常識になるのである。

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