チャレンジ
本質的な事柄は、どうやさしく表現したとしても難しく感じられる。理由は、その事柄を理解するために、これまでの思考の枠組みを変える必要があるからである。この過程を乗り越えない限り、分かる事柄しか分かろうとしなくなる。これでは知識は水平に延びるが、上昇はしない。鸚鵡のように同じことを喋っているのに、本人は知識を蓄えているつもりになっている。考え方が同じなんだから仕方ない。蛇が脱皮するように考え方も脱ぎ捨てなくていけない。理解できない事柄の中には、そもそも初めから理解するに値しないものと、理解するならば貴重な知見が得られるものとがある。後者の場合、例えばフロイトやマルクスなどは、必ずしもやさしく書かれてある訳ではない。わかりやすい解説本でわかったとしても、その理解は本物ではないからほとんど意味がない。よくわかりやすく説明するべきだと言われるが、説明されるべきことが、その理解の過程において既存の思考の枠組みの転換を要請するものであるならば、わかりやすく説明するのは原理的に無理になる。しかし、このような思考の枠組みを転換させるようなものこそ、ほんとうに価値があるのであって、なおかつ普遍的なもので、いつまでも使えるような知識なのだ。変わると簡単にいうが、変わることはなかなかできるものではない。変わることはまさに難事業と言えるだろう。恩恵はもちろんある。変わるならば、人間そのもの人生そのものが変わる。それは世界をみる視点を変えてくれる。
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