A新聞卒業のち発想へと歩く
A新聞を読んでいて、この新聞がもはや救いようのない末期の状態であることを気づかないのなら、相当の鈍感と言わねばならないだろう。感覚的なもののほうが大切で、細部の細かなことは省いてしまっても構わない。細部により細部が構成されるが、それはまるごと大きな見方によって一挙に駆逐される。つまり細部における無限の努力が、新しい発想などで無意味な労苦と化す場合がある。努力の次の努力は同じものではないが(努力が人を変えるため)、潔い発想の転換には遠く及ばない。誰しもこれまで培った経験を尊重するあまり、この場から離れるのを恐れる(これだけ経験したのだから恩恵があるはずとの誤った過信)。一定の場から進もうとするが、発想を大胆に変えようとする人は少ないように思われる。真に考えを進めるとは、異なった考え方への移行であって、わかることを積み重ねることではない。一億人のしていることを同程度にやることにあまり価値はない。(これは日常生活批判になってしまうので問題だが)。しかし話が合わないほうが自然なのであり、ここから産みだされる新しい知見に価値があるのも確かである。だから話を合わせるとか、話がよく合うとかいうものは歓迎されるべきものではない。その場で起こっていることは当たり前と当たり前が邂逅しているに過ぎず、交流こそあれさしたる進歩は期待できない。自分と同じ世界を共有するのではなく、自分と異なる世界と交流するほうが益がある。安心を拡げるよりは不安なものに向かっていき、不安を安心に変えるために時間を費やしたい。経験は鈍感でありそのまま塊になって身体に染みついて離れたがらない。これは発想転換にとってはよくないことだ。我々はこの無意識に染みつかれている経験の塊を基準にして物事を判断している。これが思考を駆動させるとき、その前の段階において阻害要因となっている。飛び跳ねるような努力をいつも気に掛けている。跳躍は空想と同じくあまり努力とは言われないものの、発想を変えることが1の努力を1億にすると信じている。新しい発想は、礎をその底から変えてしまう。ここに努力の入り込む余地はない。コロナ感染症の流行(2020〜2021)で学ぶべき教訓のひとつに数えられると思う。常に発想を変える方向に微々たる努力を向ける。単に生活をするのではなく、生活に対する発想を変える。単に仕事をするのではなく仕事に対する発想を変える。単に生きるのではなく生きる意味の発想を変える。以下同文。
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