ゲームからマッチ棒まで
ゲームでプログラミングを学ぶという記事を読み、なるほどと思うと同時に「あれ?」と不思議な感覚に陥る。ゲームで学ぶことができるのなら、ゲームで(ゲームをすることによって)働くこと(労働=賃金=生活)もできるだろう。すでにeスポーツなどがある。すると次にゲームとは何だろうと考える。ゲーム化とも言うべき時代に突入している。複数のプレイヤーが、一定のルールあるシステムのもとに活動する。舞台で登場人物が振る舞うのに似ている。ゲームをつくるのもゲームをするのも仕事になるとは不思議である。昔からゲームはあった。最近はゲームでないものもゲームのように扱われる風潮がある。ゲームのように分かりやすいシステムに置き換えたいのか?ゲームという枠組みで囲んでしまえば安心するからか?無視できない変化だと思う。人間は、ほとんど変わっていないが発明した人工物のその創造者である人間に与える影響が大きくなっている。人間と機械とに分けるなら、人間よりも機械のほうが肥大してきている。ここで問われていることは明白だ。つまり人間と機械の融合される世界が急速に進むなかで、人間はどのように人間以外の人工物と付きあうべきかという問題である。人類の運命をSF的な観点からみると、人工物を造ることから進化してきて、最後にはその極限となる恐るべき人工物によって人間の地位を追われるというシナリオは理解しやすい。宇宙から傍観していた冷静な存在があるとすれば、人類の誕生と終焉は呆気ない茶番に映るだろう。人類がいてもいなくても地球にとってはどうでもいいことだ。マッチ棒みたいに発火した瞬間に消えて無くなる。誰もいなくなってしまえば、人類が何をしたのかと問われることもない。
ゲームの本質とはどのようなものだろうか?ゲーム化する世界とは何を意味するのだろうか?「それをゲームにする」とは枠組みを構築することであり、可視化することであり、操作しやすいような形式を与えることであり、全体が俯瞰できる世界を仮につくることであり、誰もが共有できるようにすることと言うことができる。人は分からない儘でいることができないから、分からないものを分かったものしようとする。その手段のひとつがゲーム化である。ゲームはゲームのなかに留まるもので、それ以外を排除する。ゲームの外側は存在しない(素材のすべてをゲームのなかに押し込む)。外側があるとすれば、それを再度また別のゲームに置き換えるだろう。分かるものだけを分かったものと限定する事で不安を回避して安心したいのだ。人の心が一時も宙ぶらりんの状況に耐えられないようにできている事実は重要である。混乱のままでいることはもはや不可能である。嘘でもいいから安定したいという強烈な誘惑に駆られて、安易に分かったものにしてしまう。ゲームの構築は、誰もが共通の了解を得るためには都合がいい。目印をつけて理解したことにする。しかしこれは言うまでもなく危険だ。謎は謎としてそのままにしておくのが自然であるから。曖昧を曖昧のままにしておくのが本来の在り方なのに、満足ならず兎角合理的に考えることを強制され効率的になされるように促される。論理的に考えることは、論理的に考えることのできない現象をかたっぱし排除し隅に追いやり無いものにする。ひとつを理解するために、もうひとつを無視して相殺する。意味を把握した途端に削除され埋葬されたに違いない意味があったはずである。そうなるとどうなるか。希薄になり浅薄になりギスギスしたものになり、深みを無くして味わうことが疎かになる。こうした環境が一般にあることは普通誰もが薄々ながら感じとっているものである。だから私は、手っ取り早く知識を仕入れるのに興味がなく、馬鹿みたいに放心状態を続けている。せっせと積み木を積み重ねる労力にも時間を費やすけれども、社会でもっぱら推奨されている論理的思考については幾分か懐疑的であり信用していない。なぜなら空想の翼が萎んでしまうから。宙を舞う鳥の習性を発揮したいから。
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