器にまつわる話

「どうしてもうまくいかない」
「それは器以上のものを詰め込むからだよ」
「どうすればいいの?」
「器を大きくするようにしたらいい」
「どうやって?」
「決まったやりかたはないよ」
「教えてくれる人はいないの?」
「いつも先生がいると思うのが間違いだよ」
「ほんとうに先生はいないの?」
「誰を先生とするかによるね」
「どういう意味?」
「反面教師という言葉があるだろう?あなたの敵や悪者も考えようによっては先生になる。敵と考える奴から教訓を探そうとする人はあまり多くいないようだ。嫌悪感からそっぽを向いてしまいがちだからね。犯罪者をすぐに悪者扱いにして批判するのはたやすい。『悪→批判』は誰でもできるし、できないほうがおかしい。また世間体このように反応することが求められてもいる。でも誰でも簡単にできることに価値があるのだろうか。常識をほんの少しずらす技は知恵だ。ほんのというのは、まだ常識からそれほど離れていないという意味だ。一般的な事実に常識的な反応ばかりしていても何の発展もない。悲惨なニュースに接し瞬時に非難で反応するなどがそう。感情的な事実に感情で応じる。ここに冷静な分析とか、なんらかの知見を得ようとするとか、教訓を導き今後に備えよう等の発想はない。特定の現象について当然の現象が生じているだけにみえる。これでは毎回同じような事件があってもその前後で変わらない。衝動に対し衝動で応える。ここで免疫を例にとろう。ワクチンのことだ。ワクチンは敵をすこしだけ自己に注入することで本来の敵を防御する。非自己を自己と同化させるという試みといえる。敵を注入するとは素晴らしい発想ではないか?敵をも排除しないのは常識的ではないかもしれない。悪についても同じことが当てはまる。正しいものから学ぶのが一般的であるけれど、正しくないものからもおなじように学べる。何が正しくないかを教訓として学べる。なぜ間違ったのか、なぜ悪いほうに向かってしまったのかなどの研究は、これからの指針に役立つ。非難される対象を冷静な心で分析評価する作業は、なかなか難しい。いま目の前でゴミを投げ捨てた人がいれば、あなたはどうしてと思う過程を通り越して即、馬鹿野郎!となるでしょうから」
「ところで器についての話はどうなったの?」
「器を知らないでいるよりは、器を自覚しつつ、これを大きくするほうに注意を向けたほうがいいのではないかと思うね。器を度外視して、あれこれやっても変わらない。吸収するだけでなく、それを吸収する器そのものを大きくするしたほうがいい。入れ物が大きいければ、それだけ沢山入るだろうからね。次はシンプルにするという段階に移行することになるが、また次回にしましょう」

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