恥の多い人生

彼は、なにも身にならず成し遂げることができなかった。それで、尊敬する某氏にその理由を訊ねてみた。
「君の話を聞いていると、その理由はもはや疑いなく明白だよ。それは誠実と真剣と真摯さを忘れている」
ああなるほど。これには意表をつかれた。
我が身を思い返すならば確かにこの三点をみごとに忘却している。
真剣に生きたと心から思ったことは恥ずかしながらないし、誠実すら曖昧なものであった。真摯に至っては、雲の上の言葉のようであった。
しかし、なぜこんな当たり前で基本的な要素から遠く離れて生きてきたのだろうか?
あたかも別次元の言葉のように思われたのか?
それになぜ今頃になってこのようなことを思うに至ったのか?
長いと言えるコロナ禍で、段々と理解する様になったのが、誠実と真剣と真摯さである。
記憶力の欠損は、真剣でないのが原因だろう。
何も成し遂げられない原因もおそらくここにある。
いい加減であったし、中途半端だった。誰かをあてにするような責任のなさ。子供のような甘え。

これまである種の中毒に陥っていたのだが-つまり思考中毒のことであるが-何の意味も価値もなかった。遊戯の域をでない。
中毒でいる間は幸福を感じることができたのである。だがそこに誠実真剣真摯は皆無であった。

死に物狂いにならなければ、なにも最後まで完成させられない。これまで本気になった試しがない。
どうして気が付かなかったのだろうか?
不思議だ。不思議だ。
ある程度の思考能力は自負していたつもりだったが、誠実と真剣と真摯さを土台に築いていこう。また、ごくごく初歩的であるものを軽視しまう傾向のあることも知ったので、修正していこうと思う。

跳躍してしまい、跳躍だけに生きていたのは間違いだった。単純で簡単に思えることこそ蔑ろになりがちだ。もう既に痛い目に遭っているのだけれども、それすら気付かずに鈍感を発揮していたのは愚かであった。
でも愚かさに気がついたというだけでも救われた。



渋谷昌孝(masataka shibuya)

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