初期設定

見るとは見ないものを決めること。
もしぜんぶを見ようとすれば何も見えない。
知るとは知らないことを決めながら知ること。
もしぜんぶ知ろうとすれば何も知ることはない。
ところが、このように集中することばかりが重要なのではない。脱力し茫漠しつつ全体を平均的に注意する(無理のある表現だが)時間がなくては、ほんとうの集中はない。
これはだれもが無意識に行なっているが、集中の度合いと弛緩の度合いとが大きく異なる。大きく集中すればそれだけ大きな弛緩を要する。弛緩の状態を具体的に言い表すなら「あっちの世界にいってしまっている」ような感じである。これを評して人は怠けていると言うだろう。
そうではない。怠けているようにみえる忘我と恍惚のあいだに来たるべき強度な集中に備えている。それはまた過集中のあとの平安でもある。両者はトレードオフであり、一方が欠ければもう一方はない。
極端な傾向のあることは少なくとも条件のひとつになるが、良き均衡を保ったうえで尚も極端であることが要求される。良き均衡とは、現実とどこかでつながっていることである。恐ろしいことに現実と切れた時点で終わりである。あくまでも常識を配慮しながらでなくてはならない。論語を無視するのは無謀すぎる。ここでも矛盾の成就である。
達成のための条件は、極端な傾向に加えて矛盾を成就させる力という第二の条件が入り用になる。ところで極端になることはそれほど困難なことではないだろう。寧ろ極端になりがちだとも言える。だがこれでは何の成就を齎さない。まったくの独りよがりであるに過ぎない。一度はこのような独りよがりの深海に没入してもいいが、海面まで浮き上がって来るべきである。もっとも海面に浮かぶだけで潜りもしないのは論外とする。矛盾の成就とは、我を忘れる深い没頭と、それと真逆にある現実世界との連絡を絶やさないことである。
矛盾成就のための不可欠な要素とは、均衡を維持する能力である。バランスを崩しながらも尚もバランスを維持するのはかなり困難である。バランスを崩さなければ何も変わらないので、意図的にバランスを崩すのであるが、秤のように中心に戻ることを忘れてはならない。メトロノーム のように真ん中に絶えず戻りながら揺れるのが理想である。中心に帰るとは、初期設定をゼロにすることを忘れないことだ。どんなに遠く離れたとしてもスタート地点に戻る。幼児の心を想像するとか、みずから夢を分析してみるのもおなじことである。

渋谷昌孝(masataka shibuya)

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