ユーモア王国

彼が一番好きなことは、ユーモアである。
ユーモアを言う人とユーモアを解する人が多くなれば世の中は面白くなると思う。
悲劇的な状況下にこそユーモアあると嬉しい。
そのような環境をつくる仕事がしたい。
ユーモアは「笑わせよう」とちょっとでも意図するだけでもうユーモアにはならない。
「笑わせよう」としてつくられた言葉は、その意図が見透かされているので、どうしても「つくり笑い」になってしまう。「つくり笑い」は疲れるのですぐわかる。笑ってあげるから疲れる。これではほんとうの笑いには遠く及ばない。
ユーモアはそのような笑いを期待しない。また巧妙さを狙ってもうまくいかない。真剣に笑わせようとすればするほど笑いは遠のく。笑わせようとしないようにして、結果として笑いに落ちているようにするのは至難の技である。方法がないのがユーモアなのであり、方法がないからユーモアを言うことができないし解することもできない。そもそもユーモアに目的らしきものはない。自然発生的なものである。
そのやり方はないが、ユーモアほど価値あるものをほかに知らない。強い緊張した「笑い」ではなく「FFっf」とした弱いがゆるく気軽で気の利いたちょっとした「贈りもの」みたいなものだ。劇薬で治療するのではなく、軽い運動で治すようなものである。笑いたいと思っていない人はいないだろう。
謙虚な笑いには、デリケートかつ繊細さを要求されるから、多少の教養がいる。ところで教養とはなんだろうか?教養のないほうが教養人であるかもしれない。だがもし「教養のようなもの=気遣い=配慮=均衡=暗黙の了解への熟知」がなければ相手を怪我させてしまう。ガチガチの教養はもはや教養ではないのは明白である。教養のあるふりは誰でもできる。
ユーモアが教養か?
それとも教養がユーモアなのか?
教養を学ぶなんてできない。学ぶ手段の分からないものが教養だろう。身につけようと思って身につくものではない。その点ではセンスに近い。センスもどうやって身につくのか分からない。
「こうすればこうなる」と手段と結果が決まっているようなものからもっとも距離の離れているものがユーモアであり教養なのではないか。
効率性と合理性からはこのような価値は生じない。

彼はこのように考えて、日常を「ユーモア王国」に染めあげることを生涯の仕事にしたいと準備しているところである。ギスギスした世界は大嫌いだからね。潤滑油になろうとしているわけです。

効率性や合理性をあまり重要視しないところにミソがあるようだ。また不確定要素を排除しないで許容する。「こうすればうまくいくだろう」の「こうすれば」を規定しない。やり方はいつも曖昧である。

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