マンボウ
夕刻。駅に近いカフェの2階席から、街の人通りを眺める。もうかれこれ2時間になるだろうか。その間、ただコーヒーを飲みながら、人の歩く姿を風景を眺めるように観察する。観察と言ったが大袈裟で、受動的かつ目的なしの傍観者たる観察らしからぬ観察とでも言おうか一種の見物である。18時を過ぎると店内のBGMが落ち着いたjazzに変わる。 耳は好きなjazzに向く。視線は外にあるのだが、もの思いに耽りつつ視線の自由に任せているから、茫漠としていて意識は判然としない。まるで放心している。同時に我が心も見ている。本も開かず、スマホの電源もOFF。頬杖をついたり、手で頭を抱えたり、両手を組む合わせて顎に乗せる。ときどき思いついたようにコーヒーを啜る。通りには男と女しかいない。当たり前だ。駅の方に向かう人と駅の方から街の中心に向かう人が互いに交差している。目的地があるようでいて、またないようでもある歩き方。綺麗な薄紫色ワンピースの女性が、ふと視線の先に華やかを点じた。だが、その服装があまりに雑誌のモデルさながらだったので急に嫌になってしまった。どうも自然体というのは難しいなと思った。男にしてもそうだ。極端なんだ。出来過ぎるものとそうでない人がかけ離れている。完璧に決まりすぎると不自然で滑稽になる。歩き方があまりに正確で姿勢が良すぎるのも日本の西洋人みたい。重要なのはそんなことではない。ビジネスの教科書を真似なくたっていい。ここでも自然体は難しいなと思ってしまう。見ていて気持ちのいいものは自然なものだ。極端に太っていたり、極端に痩せていたり、極端に筋肉隆々であったり、極端にプロポーションが良かったりするのはどこか違和感がある。気持ちが多方面に広がらず、一点に拘泥している感じがする。一直線に進んでいる感じに見える。集中は止めるときがあってこその集中である。もっともこのように感じるのは、当の私が暇人で漠然と傍観しているからだろう。特別な考えもなく眺めているだけなんだから。空想を楽しんでいる。空想には中心もなければ方向もない。太平洋の真ん中で、ぷかぷか浮かぶ翻車魚(まんぼう)みたいだ。無色透明という意味では海月のようでもある。まだ何も描かれていないキャンバスであるわたしは、描こうとするよりは寧ろどこからか飛び込んでくる被写体を捉えようと待つ。こんな世の中ではとかく注意過剰になりがちだ。「旅行に行かなくては」「遊ばなくては」「飲み会に参加しなければ」「オリンピックを見て応援しないと」「コロナ後の準備をしておかなければ」「有酸素運動を毎日せねば」「デジタルだ。勉強だ」などなど,敢えて逆の拘泥(意識方向のしこり)を想像するが、どれも何者かに尻を突かれている。それに我々は、一本調子の緊張に囚われがちである。「目標だ!目的だ!達成だ!」といって。無言の雰囲気に呑まれそうになる。わたし(あなた)は常になにかを確認したい欲求に駆られる。わたし(あなた)はみずから構成した外圧によって忙しく急き立てられる。新規の情報を更新せねばならぬという圧力に絶えず苛まれる。脅かされているのに、その正体がはっきりしないから不安になる。不安がスマホに手を伸ばさせる。悪循環と知りつつももはや逃れられない。悪い傾向である。悪い習慣である。これではいけないと誰でも知っているのにもかかわらず蜘蛛の巣の罠にはまってしまっている。どうしたものか?
だからこそ一旦、
何もしない時間を確保する勇気
をもつことが貴重になる。何もしないことにしよう。人間が機械のように24時間動いている。完全なリセットができにくくなっている。動かされているという圧迫感から離れ、主体的に動いている感覚を取り戻す必要がある。これから何事か成し遂げようとするためには、いったん前に進むのを中止して、後ろに下がってみるほうがいいかも知れない。一歩下がれば前にいる人が見えるでしょう。いつも前に突きでてしまっては周りの状況がわからなくなるでしょう。緩急をつける巧みなピッチャーをお手本としよう。環境変化に合わせて機動的に前後左右後退および停止するように心掛けよう。
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