無題

生きた労働力の死骸が貨幣である。貨幣を動かすのは、死体を強いて揺り起こすのに等しい。生きた労働に価値があるのであって、結実として残る貨幣に小細工を弄することは本来のあり方ではない。需要は少なくなってきている。生産は需要に合わせなければ意味がない。子供の教育(義務)と大人の教育(学び)がもっとあったほうが、良いほうに向かうだろう。子供が学校で学んでいるのだから、大人はさらに自己陶冶して然るべき。ただし先生と呼ばれるべき者はどこにもいないと思って間違いない(子供の場合)。需要にいいも悪いもないと思うが、質の良い需要が増えれば、世の中はより明るく健康的になり、機知に富んだものになるだろう。選挙権を有するものが賢ければ、候補者もそれに準じて賢くなるかも知れないという一縷の希望をもつ。
人は生物であるのに、機械に囲まれて窒息しているのが現状である。不自然なのだが、ここをどのように現代的なやり方で克服するのだろうか?
模索するときである。試行錯誤という言葉がぴったりだ。伸びるべきバネが窮屈に縮んでいる感覚。日の当たらない無言の場から恐るべき悲鳴が聞こえる。地響きを鳴らし大地から足に伝わってくる。
それを心臓に感じる。(2021.7.30)

渋谷昌孝(masataka shibuya)

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