デルタ株地帯
平和に傾斜ができ、平らだと思って歩く場が、いつの間にか斜面と化しているので、負荷が掛かっている。負荷が日常的にあるということは、いい意味でも悪い意味でも苦労していることになる。世界的に「重い荷物を背負うが如し」である。これまでは平地を歩く行為が、今や斜面を昇る行為にすり替わっている。そしてそれが当たり前になっている。これはどういうことなのか?痛みが慢性化していること。悩むことを強制させられていること。苦労が苦労であることを忘れてしまうこと。真剣を余儀なくされること。安心が減り不安が増大すること。いずれにしても稀にみる重荷を身に背負いながら生きている。努力しなくても努力に相当する態度を強制されている。眼には見えないが、大きなエネルギーが蓄積されつつある。いまこのエネルギーの行き場が頓挫し制限されており、将来に備えて備蓄されている。圧縮されたエネルギーは、どこかで暴発する運命にあるだろうが、まだ沈黙を保っている段階だ。格差の問題がこのまま放置されるとは思えない。なぜならこれだけのエネルギーが、マグマのように爆発するのを待っているのだから。もちろん格差問題の槍玉に挙げられるものたちは、それなりの対策を先手で考えているはずであるが、彼らとていつまでも安泰でいるのは難しいだろう。社会全体は確実に変化の渦中にある(マルクスが再び読まれているのはよい証拠)。世界的に強いられる試練は、平時の時よりも全体の水準を引き上げるのに貢献していると思う。平和にありながらも、怯える平和のなかで、あれかこれかと思い巡らす。ほぼ全国民が一斉に考える。ただ確かな手掛かりに欠けているので頼りにすべき絶対的な指針はない。模範たる手本がない。手本はだれか仮に示したものだ。重要なことは、従来の手本が書き換えられているのが現在だということ。知恵のある人は、この手本を自ら書き換えることによって新たなスタンダードの作成を試みるだろう。ただし、自分に絶対の自身がないと不可能だ。新しい試みに賛同する人は少ない。トップアスリートのインタビューでも「自分を信じて」という発言をよく聞く。「自分を信じる」のには余程の勇気がいる。これまで積み上げてきたものに信頼を置くためには、少なくとも「全力でやった」という自負がなければとても「自分を信じる」なんてことはできない。混沌とした世界で混乱しながら、既成の秩序が改変されている。周囲の動向を窺いながら自分の態度を決めるのには賛成しない。周囲は何を根拠に動くのか。それに周囲が正しい選択をしている保証はあるのか。まったくないと言える。自分を超えた行為は不可能なのだから、自分の精一杯に信用をおくしかない。自己超越はできないが、自己を深化させ外的にではなく内的に投資することならできる。これも大抵の人は既にしている。コロナ禍にあっては試行錯誤と自己投資をするしか方法が見つからない。確実に言えることは、コロナの終息を受動的に待っているだけ、これまで通りの習慣の維持と生活スタイル、ただ耐えているだけで主体的に次の手立を考えない、かつ何の工夫もしないで惰性のまま、というのが最大のリスクになるということだ。社会の構造変化の地殻変動が起こっているのだから、グレーゾーンで模索するのがあるべき態度だと思う。不安が怖いというのではなく、不安になるのがあたりまえな世の中に生きている事実を自覚する。迷うのがいい!迷路の中にいるんだから。
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