問題作家
「まだ問題となっていない問題は、私がつくりましょう。あなたはそれを解くことに専念して下さい」と言ったらどう思いますか?
いま問題(これから問題という語を与えられるというような)が問題として提示されていないことが問題なのです。見えない問題(?)が、まだ問題化されていないという意味です。
理由は「問わない」からです。すなわち疑問を投げかけないからです。さまざまな意見を比較考量しないからです。肯定されている意見に批判精神を施さずに素直に納得してしまうからです。(教科書や新聞すら、簡単には信用しないので私の成績は無残なものです!)。教科書教やNHK教ましてキリスト教でもありませんから、通過するもののその場で停止することはあり得ません。日常会話は別で、ここは臨機応変。
いったん未知の問題が問題形式を獲得してしまえば、きっと誰かが解決してくれるはずです。
問題を解くのが得意な人と、新しい問題を発見することが得意な人とがいます。(両方得意な人もいるでしょうが)。
だから分業するほうがいいかもしれない。
ひとりで問題をつくって解決まで導くことは必ずしも必要不可欠な要素ではありません。日本人の多くは、与えられた問題を解くのが得意なようですが、私は日本人ではなく(?)異邦人なので、問題を解くの苦手です。その代わり、新しい問題を提出することができます。
何が問題になっているかを考えて、だれでも分かるように問題を定式化する仕事に注力したい。そのためにまず誰もわからない高みまでいったん到達してから、登りはじめの地点まで再び戻ってくる必要がありますが、もちろんぜんぜん高みに到達していないのも承知しているので、分かってもらうという期待をとりあえず捨てて限りある能力の行けるところまで行ってしまおうと考えているわけです。そうすればどうしても不可解な異次元世界を逍遥することになってしまう。分かってもらえないことは辛いし誤解されることになりかねませんが、分かっている世界に希望がないのは確かなことであるし、だれもがすぐに分かる世界はもう衰退していて価値も下落しているのも確かなことなので、賢明なやり方はおそらく分からない世界のほうに向かって歩きだすことであって、逆にすぐに納得できるような単純な世界からの離脱を試みることにあるのでしょう。ただし最終的にわかりやすい地点に回帰するというのが条件です。(高みの光景を眺めるまでは暫定的にこの条件を忘れるが)。
異邦人たる私は、解答のわかっている問題集を見ただけで怖くなる。それがたとえ練習問題であったとしても。基礎が身につかないという欠点があるのは知ってのことです。基礎なしに空想だけが飛翔してしまう。これで失敗しているから基礎に戻ろう!
ところで重要かつ喫緊の問題となるべき課題が、正しく問題化されていない現実に驚いています。可能性を可能性と認識していないのですから。つまり問題とされずに放置されている例が無限にあるのに、なぜ問題集を解く暇と時間があるのか(またそう思うのか)、とつい考えてしまうのです。(それはたぶん未知の存在と、その量に盲目でいるからです)。
政治にしても経済にしても医療にしてもコロナ感染症にしても、あるいはこれらの相互関係にしても問題が山積しているのは明白です。それらがでたらめに問題のようでいて、まだはっきりとした問題の枠に収まらないままになっている。断片的に問題がふらふらしていては解決なんて到底見込めません。これを解決できるように、問題として定式化するという仕事が忘れ去られている。具体的には、「これこれがこのような状況にあって、クリアされるべき問題はこれこれである」と言ったような具合です。注意すべきは、問題を正しく明確化すること、および暫定的でもいいから問題を大きくすることなく、あくまでも解決に導かれやすいようなカタチに限定した問題に転換することです。
改めて繰り返すと、日本人はあらかじめ問題を与えられれば、かなりの確率で解くことができるので、この優れた特性を十二分に発揮してもらうのがいいでしょう。与えられれば正しく答えようと努めるのが、多くの日本人の長所(真面目と勤勉)であるような気がします。逆に短所は、未知なるものに向かって「問いを発さないこと」であると思う(安全運転の国民)。問いかけなければ、新しい問題は発見されないのは当然です。以上により、異邦人である(やんちゃで冒険好きの)私は、未知の領域に向かって果敢に挑戦して問うことで、問題を見出すことに特化しようと思う。その代わり解答することについては他人に任せよう。当面のあいだは問題となっていない問題の世界に野宿するつもりです。
それとも、もし誤解され批判されても苦にならないというのであれば、あなたも問題の作家になりますか?
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