誤解
危険な人とは、自分が危険であることを知らない人である。オレは危険な人間なんかじゃないと慢心している人こそ危ない。詐欺に引っ掛かる人はどんな人か?それは私は詐欺なんかに引っ掛かるような人間じゃないと高を括っている人である。「汝自身を知れ」と言われる。自分を完全に知っているという人がいたらお会いしたいものだ。分かるはずがない。「汝自身を知れ」とは、常に謎を秘めている自分自身に向かって問い続けよ、という意味ではないか。自分自身について注意する労力を惜しんではならないという意味ではないか。もし「私は私のことを完全に知っている」と自信を持って言える人がいるなら不幸である。自分を固定しているのだから、いいも悪いも未来が固定されてしまう。むしろ知らないと思っていた方が柔軟に変化できるだろう(知ろうとする努力は継続されるとして)。自己が分かったものとして限定するのは大抵の場合は誤っているから、知らないということによって可能性の余地を残しておくのがいいだろう。「私は〜だから〜できない(できる)」という。「私は〜」という「〜」の部分は誰がいつ決めたのか。その誰は昔と今とで同じと言えるのか。決定したときの判断力は、その後から変わっていないのだろうか。私を知っていないと「〜」の箇所が定まらないが、私について知ることは不可能に近いことが理解できれば「〜」は固定されない。「私=未知=(〜)」と表現できる。いずれにしても、私を知ることは永遠の課題であって、容易に知られることはない。私自身についてさえよく分からないのだから、他人については尚更わからないはずだ。そうであるのに、世間では他人について、さもわかったかのように話す人がいる。他人への理解は、自分自身への理解を通過してなされる。つまり自分に対する理解の度合いに応じて他人をみる。自分を知っているものと錯覚している人は、その錯覚を起点として歪んだ他人をみていることになる。自分も知らないし他人も知ることができないというのは真実だけれども、仮の幻想に基づき仮に理解したり納得したりしているのが現実だ。私について十分知っていないことを自覚すると共に、他人についても不十分にしか知ることができないという事実をはっきり自覚することは重要である。知ることに遊びがなくてはならない。クルマのハンドルのように。知ることよりも危険なのは、硬直した知性である。空白や余裕の欠落した知性こそほんとうに恐ろしい。精緻であり厳密であり合理的であるのは一見すると知性の完璧さを示しているようだが、実際は逆で余白のある遊戯的な、ときに矛盾を内包する知性のほうが実りある結果を産む確率は高いだろう。確実を積み重ねることより不確実な要素を弄ぶうちに意外性のある新しいヒントが閃く。
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