5月31日の夜雨
「わからないこと」に興味があるのに対して、「わかること」に対しての興味が欠けている。だから「すぐにわかる」ような本はあまり読まない。「すぐにわかる」ような本は売れているけれども、なにも残らないし栄養にならない。(人が書いたわかるものであって、自然等の人工物以外についてはこのかぎりでない)。「わからない」ものは、それを主題化するだけでもいい。つねに気に掛けておき、無意識の思考に任せてしまう。この中途半端な経路が厄介だと言われる。曖昧なイメージは切り捨ててしまいがちだ。すぐにわからないと嫌だという。なぜ未知なるものに辛抱強く付き合わないのだろうか。美味しいワインは何十年も熟成させるからこそ味わいがある。コスパとかタイパとか費用対効果は合理的と思われるかも知れないが、それはちょっと違うのではないか。はじめから得られる効果を知っているつもりになっている。安全で保守的な思考で無難ということもできるが、いずれも「わかっているもの」からスタートしている。疑問に思われるかも知れない。当然「わかっているもの」から始めるのではないかと。人間はそんな単純な生き物ではない。子供時代を思いだして下さい。「わかっているもの」からでしたか?「わからないもの」と「わからないもの」の連続(相互作用)でした。それらわからないもの同士の照合によって「ある基準のようなもの」が次第に浮かび上がってきたはずです。ふつう一般的には確実な未来をあるものと考えてしまう。「わからないもの」に積極的に挑む方法は賭けに近いもの、冒険であり未知との遭遇であり、チャレンジであり何より刺激的なものである。飛躍があるとすれば、このようなやりかたを採用した場合であるだろうし面白く醍醐味がある。分かることを分かるような形式でいくら分かったとしてもつまらない(と思う)。少なくともパターンに固執して生きるのは褒められたものではないだろうと(個人的には)感じる。別に、そのような人生が大半であるのは承知しているつもりだし、よく理解できるのだが、未知なる謎の大きさに比すれば勿体ないとどうしても言いたくなる。
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