「わからないもの」第二弾
はじめ理解不可能な対象に接する。このときにおいても対象との繋がりを保つ。「まったくわからない」という感覚になるが、それでも関係を継続する。運がよければ、理解不可能だったものに親近感のようなものが生じる。見返りを期待しないで関係を続けるのは「わからないもの」と遭遇した瞬間に諦めて縁を切ってしまうことと反対である。「わからないもの」はそれと関係し付き合うという姿勢によってのみ「わかるもの」に変化する道が残されている。やや混み入った話になるが、当初「わからなかったもの」が「わかるもの」にすり替わったのではない。理解不可能だった対象は、そのまま変わらず同一状態のまま固定されている。ここで明白な事実に気づく。「わからなかったもの」が「わかるもの」に変換されたときに変わったのは、私において他にないという事実である。はじめに理解不可能と対峙したときの私と、理解不可能だった対象が理解可能になったときの私とは別人(内容的に)であるということになる。対象が変わったのではなくて、私が変わったのは当然すぎる事実だ。ここで一般化してみよう。理解とは、私が変わることによって初めて可能になったと言えるだろう。理解しようとする努力とは、私を変える努力と同じである。さらに敷衍させるならば、私が変わらなければ「わからないもの」が「わかるもの」になることはできないという結論になる。したがって「わからないもの」と関係することなく放置するとは、私を変えないことと同じである。このような姿勢は、はじめ理解不可能に見えるものに対して、即拒否する態度となって現れる。このような人は「私を変えません」と言っているのと同様である。くどいようですが「私を変えません」ということは「理解しません」と言っているに等しい。
太陽を「わからないもの」とする。その周りを公転するように動くのが私である。私は立ち位置を変えながら「わからなかった」太陽の理解にこぎつけることができる。
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