気紛れ
重要な事柄は難解である。難解な事柄を理解しようとしないのは重要で価値のあるものを無視してしまう態度に通ずる。難解な事柄は、容易に理解できるように編集するには無理がある。だから理解能力を高める必要がある。特別な秘訣などなく、常識的な努力を地道にやればいいわけなのだが、兎角なにか未知なる秘訣があるに違いないとか、たやすく新しい知見を求めがちである。あたりまえなこと、常識的なことがなされていない。いったん決めた方向性を何十年を貫き通すのは、平凡だがもっとも難しい。時々の人気や不人気に囚われてしまう。むしろ人気が過熱しているものには極力避けて、そのとき注目されていない不人気のほうに注目すべきである。というのは、いま人気のあるものは、必要以上に価値が高騰しているに違いないからである(正常ではない)。これらにつきあうのはあまり賢明なことではない。大衆心理の逆を考える。情報が一度にぜんぶ出尽くすことはない。つまり選択されている。しかし表に現れていない隠れた情報はきっとあるはず。この情報が次に表に現れてくるのだが、表沙汰になったころにはもう遅い。世間が注目しているときには、反対に世間が注目していないものでかつ重要なことに眼を転ずる必要がある。どちらに意味と価値があるのか判断するなら間違いなく後者である。ニュース情報が提供されたときには、そのものに絶対的な注意を向けるのではなく、ニュース情報になっていない背景のほうを気にかけるべきである。また大衆は移り気ですぐに忘れ去りがちであるという特徴も考慮すべきだ。重要な事柄は、人気に左右されるものではない。それは変わらずにあるが、気まぐれに人気になったり不人気となったりする。行列に並ぶのはもっとも馬鹿げたことであるように思う。目的は買うことではなく、流行に関与したという体験そのものにあるのだから。つまり一年後になればまったく意味のないことなのだ。ここで改めて冒頭に戻ろう。重要な事柄は、大抵のばあい難解であると言った。理解が追いつかないとき重要なことは分からないから、無いものとしてしまうだろう。したがって本質的で普遍的な価値の多くは、知られることのないまま放置される運命にあるが、もし深く理解するならば、それらに生命を吹き込むことができるだろう。
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