真摯・誠実・直感・否定・0・無意識・真面目・真剣・謙虚・快活
誠実さは顔に端的に現れるから、
真摯さと併せて兼ね備えたほうがいいように思う。
これに気がついたのはごくごく最近のこと。
悪いことを考えていると顔も悪くなる(ように感じる)。
眼と声と言動と態度でほぼ決まってしまう。
が、男性アナウンサーの多くは嫌いである。
(女性アナウンサーはわからない)。
と言っても顔では判断しないようにする。
その人の雰囲気のほうが、より的確だから。
雰囲気は自前でどうこうすることはできない。
だから人の判断は直感に頼る。
雰囲気のうえに別の雰囲気がある場合もある。
コンプレックスのない人は付き合いやすい。
ということは自分には相当のコンプレックスがあるに違いない。
コンプレックスのある人は鏡であって、自分をそこに見いだす役目をしてくれる。強い否定こそ真実の確たる証拠である。不快感はその感情を抑圧しているからこそおきる。
単純に嫌いというのではなく、また単純に不快と思うのではなく、なぜそのような感情がこのときこの場で惹き起こされたのか反省してみる。一方的に拒絶するのは易しいが、それ以上心は深まらない。
人を変えようとしない。むしろ自分を変えたい。
自分が変われば、人も変わった風にみえるだろう。
謙虚であれば教えてくれるが、高慢だったり強情であると人は教えてくれない。教えてくれないとは、直接口頭ではなく、何気ない態度で教えるという意味だ。汲み取らないといけないが、私には日本人離れした鈍感さがある。
世間は妙に神経質になっている。視野が狭いのだろう。自分の深層心理に本気で向きあっているような人はあまりいないようだ。だから、他人のことに興味が集中するのだ。他人なんてどうだっていいではないか。適度に気にかける程度でいい。もっとも重要なのは、自己の内面と向き合うことである。これは辛く大きな仕事である。まず私が拒絶するものや極端に否定することに注目して、なぜそのような不可解かつ不愉快な感情になるのかを徹底的に分析する必要がある。自己の内面に流動性の欠けた痼りとなっている腫瘍のようなものが必ずある。この痼りは頑固に動かないでいるが、そのために自然ではない感情がいつまでもわだかまっている。これに取り憑かれているあいだは、すっきりしないまま(歪みながら)生きることになってしまう。ほんとうに、自分にとってあり得ないこと、信じることのできないこと、そんなはずがないという強い思い、まさかそんなことが自分の心の奥底に眠っているなどと考えたくないことなどが、無意識下にはある。このような到底認めたくない心理が眠っているが、強い否定と不愉快さのためにそこから逃避しがちだ。しかし決して認めたくない自己の本性と折り合いをつけない限り、心の成長はないから同じ場所で停止したままだ。身体に矯正が不可欠であるように、心もときどき矯正してやらないといけない。ニュートラルに戻してゼロ地点に戻らないと、妙な癖が指数関数的に肥大してしまう。
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