キリキリす

胃がキリキリ痛いという。確かにある胃痛の症状をキリキリ痛いというとしっくりする。また言葉にすると妙に腑に落ちるのだが、キリキリという表現は曖昧だ。キリキリを胃と関係づけたときに初めて意味をもち得るような不思議な言葉である。どこからキリキリがでてきたのだろうか。キリは錐(きり)で刺すようなイメージからきたのだろうか。が、そうした言葉の意味より先んじて胃痛の特別な症状をキリキリと痛いと言ってしまう。医師もその曖昧な症状の言語化されたものをすんなり了解する。普通の日常生活でまずキリキリの表現はでてこない。胃の痛みの表現としてキリキリが突如に現れる。キリキリというときキリキリをほんとうに理解してそのように表現しているのだろうか。キリキリが先にその意味を知らずして言われているのではないか。キリキリの意味内容を熟慮されることなくキリキリという言葉が先にある。どうした理由でキリキリという言葉が、胃痛の症状の主訴として納得されるのだろうか。曖昧な了解が容易に納得されて不思議に思わないのが不思議である。よく熟考されないで発語される身体的な言語がある。熱湯に触れたときの「熱い」など。瞬間的に発せられるのに間違って「冷たい」ということはない(どうしてだろう?)。寒いときも同様に「寒(さむっ!)」と一気に言葉になる。どうして正確な表現が瞬間的に選択されるのかわからない。いずれも意味を知るより先にあるいは、内容を熟慮することなく万人の共感可能な言葉が理解に先んじて発せられる(言葉を選ぶ時間はないのだから考えて喋ることにはならない)。ここで、これらの現象を改めて考えてみると、誰が言葉を真に語っているのか疑問である。言葉の主人が不明なのだ(考えて話されていないのだから)。言葉を駆使しているのは、己であると断言できない。つまり言葉は己よりも先にあったり後にあったりするだろう。言葉は預言者であり、了解のほうが遅れて訪れる。語っている最中におのれが何を言わんとしているのかが判明する。言語活動は厳密に調べるならば、どうしても曖昧を起点にしていると結論せざるを得ない。人は必ずしも完全に知っている事柄を言語化しているのではない。言葉はしっかり実在しているが、決して数字のような無味乾燥な記号とは異なり、ある種の多様な含みが内包されているのは事実であるように思う。だから言葉の本質を鑑みれば、言葉とデジタルは、まったく相性が合わないこともまた確実と言える。デジタルから疎外されたものこそ言葉の本性ということができよう。

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