私の方法
誰しも納得したものだけを基準にして考える。納得しないものは、自分の埒外におこうとする。納得する力は個人の能力に依存している。能力の範囲を超えたものは納得できない。これが現実だ。納得されていないものの中に重要な価値があるとしても、それは納得されない限り、重要な価値になることはない。これは、つまり重要な価値を無視しているのと同じことになる。だからどうしてもなすべきは、理解能力を高めるということになる。価値を評価するには、まずそれを理解しなければならないからだ。では理解能力を高めるにはどうすればいいか。まず現在の理解能力を反省することだ。そしてどのように理解をしているのか、自分をつぶさに観察することからスタートする。自己分析をせざるを得ないのだが、これがなかなかやりたくないものなので、大抵の場合は毛嫌いされる。他人に注意するのではなく自分に注意するのは難しい。自分を本気になって(徹底的に!)調べる心構えをもっている人はあまりいないようだ。中途半端に自分を知ったつもりになっている。他人を理解するのは自分を介してなのだから、自分を中途半端に理解していたのでは、他人も中途半端にしか理解することはできない。自分の欠点や直視したくない暗部についても正面から対峙しなければならないのは苦痛である。だが理解能力の発祥は、自分であることをよく知るべきである。一見すると他人を鏡として自分を知るものと思われるかもしれないが、それに気づくのは他ならぬ自分であって、他人はその触発のきっかけに過ぎない。ここまでは理解能力を高めるための準備段階である。必要最低限の段階である。自分のありのままを裸にして解剖することから始める。理解能力を高める努力は、この過程を経てからの話である。もっとも、完全に自分を理解することが不可能なのは当然である。それでもできる限り深く知るに越したことはない。他人にいくら注意したとしても、自分の本質に無知ならば、他人に対する適切な評価はできない。これらは一般的な理解にも当てはまる。もっとも恐ろしい失敗は、理解の方法を変えないことであるだろう。理解されるものは動かないのであるが、自分の理解能力が変化することによって、理解されるべきものが動くように見えてきて、最終的に理解するに至る。自分の思考を変化させることによって、少なくとも理解能力の向上が計れるはずだ。理解することが多ければ、重要な価値の理解もできるようになるだろう。これまで影響力のあるものにもかかわらず、理解できなかったものに対して分かるようになれば、世界はこれまでとはまったく別の素顔を見せてくれるに違いない。
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