透明で明らか

自己分析を施して判明したことがある。

それは、自己がまったくわかっていなかったという事実をはっきりと、かつ明瞭に理解したことだ。
わかることの理解ではなく、わかっていなかったことが、わかったという意味の理解である。

1%未満の自己理解が、全部であると勘違いしていた。これは致命的であったが、もう知った。

何かを知らないという以前に、自己についてさえ、まったく理解していなかった。自己の外側が分からないというより、むしろ自己の内側のほうについてまったく無知であった。謂わば出発点に誤解があったことになる。

自己を簡単には理解できないどころか、分析すればするだけ、謎が深まる。深淵の極みである。自己はその殆どが「知らないもの」で形成されている!

この分析結果により、私が何事ができるとも、できないとも言うことができなくなる。つまり、私に対する私自身の判断は決して正確にはなり得ない。正しく理解できていないのだから。

これは不利なように思えるが、可能性についてさえ判断できないということだから、可能性があるとも、また無いとも判断できないことであり、同時に断定の禁止になるので、開かれているだろうという予測は希望であるとも言える。断定の禁止とは、決めつけの禁止でもある。

多くの人々は、可能性があるとか無いとか判断するけれども、その判断そのものは誤りなのではなく、実際は、そのような判断がそれ自体、不可能であり
手に負えないことなのだから、保留にしておくのが正しい態度なのだ。

「自分は愚かだからできない」とか「自分は優秀だからできるはずだ」という言葉は、自分が、自分の能力を「判別する能力」があることを認めた上での発言となっている。だが、どうして自分のことなど分からないのに、自分の能力を「判別する能力」があるなどと言えるのだろうか。この暗黙の裡に前提とされている「判別する能力」は、無いと見做すべきなのではないか。そうすると、「自分は愚かだからできない」とか「自分は優秀だからできるはずだ」とかをいうことは、自分の判断能力を超えた発言であって、ほんらいそのような判断はできないことであるし、また判断してはならないことだ。つまり、自分の能力を判断するという、この判断力がないはずなので、能力があるか無いかの判断は容易にできないはずである。それでも尚「自分は愚かだから〜」「自分は優秀だから〜」というのだとすれば、その人は、自分に自分自身の能力のあるなしを判別するだけの能力があることを認めていることになってしまう。しかしながら、自分をほんとうに分かっている人は恐らくいないだろうから、「判別する能力」においても無いと言うべきでなので、能力があるとか、又は無いとか判断できないのが真実である。

まとめると、能力があるとか無いとか判断するには、それを判断する能力のあることを前提しているが、自分の本質を知らない場合(自分の本質に判断力も含まれる)、この判断する能力があると認めることができないために、自分の能力の有無についても、それがあるのか無いのかについて決定することはできないというのが、より正確に近い結論となるだろう。

わからないものを判断してはいけない。

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