人格と作品
古典は、誰によって書かれたのかはあまり重要ではない。何が書かれているのかが重要になる。死んだ作者に意味がなくなり、作品の解釈のほうに意味が生じる。こう言ってもいい。どうやって書いたかとか、どのような環境で書かれたかは問われないばかりか、作者がどんな人物であったかさえ問わなくてもいい。これは重要なことである。作者のスキャンダルは、作品とはなんら関係を持たないのだから。純粋に作品の価値のみで決まる。モーツァルトの奇矯な振舞いが気に食わないからと言って、モーツァルトの音楽を愛さない聴衆がいないように。作者と作品が共存している場合はこうはいかない。作者の人格と作品との関係に注目されるから。人格の犠牲の上に築かれた作品は評価され難い。だが、必ずしも善良な人間が卓越した才能を示さないのも事実であるから、ものの価値を見極めるときは個人的な感情と普遍的な理性を区別するべきであろう。そうしないとせっかく価値があるのに、見過ごす。プラトンは奴隷(一時的な軟禁状態?)であったし、セネカは犯罪者であり、カラバッチョは殺人者であった。しかし、その功績は否定できない。
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