狂気の論理
我々が狂気というとき、こちらから狂気を見ているのであって、狂気の側からこちらの世界を見ているのではない。こちらの世界から勝手に狂気を想像しているだけである。狂気に論理がないように見えるのは、狂気の世界を、狂気の外側から見ているからだろう。狂気の側から表現されるものは、狂気の論理に則っているだろうが、通常の言語の使用法にはならない違いない。同じ言語であっても、狂気の論理が掴みとる言語は普通の文法法則では表現されない。無秩序と非論理に見えるのは、あくまでも、こちらの世界の文法から見るからであって、狂気の世界の中に立ち入ってみることができないから、そのように見えるというだけのことである。死が、あたかも死ぬことなしに死とは何かが分からないように、狂気も狂気にならなければ、狂気の本質は知られないが、いずれも不可能なことである。死んでいるあいだは生に戻れないのだし、狂気のあいだそのままでは、狂気をこちらの世界に了解可能なものとして表現できる状態にはない。捕まえようとすれば逃げてしまう。M.フーコーは、次のようにうまく書いています。「狂気をその最も引き籠った本質において追求することで、その究極的構造を画定することが課題であっても、それを表明するためには、錯乱の完璧な論理のなかで展開された理性の言語そのものしか発見されないだろう。狂気を接近可能なものにするまさにそのことが狂気として身をかわすのである…」。
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