奪われる「誠実」

人間本来の誠実さと、思考能力の高さは反比例するという仮説を提出したい。ほんとうならば残念な仮説である。誠実な心を失うようなことを好んでする人はいない。誠実とは何か。広辞苑には「他人や仕事に対して、まじめで真心がこもっていること」。仮説を次のように表現しよう。つまり「思考↔︎誠実」である。思考と誠実が対極にある。経験から導きだした仮説だが、注意すべきは意図的なものはどこにもないこと。実感としては、思考濃度を高めるのに比例して、いわゆる誠実さが奪われている感じがする。理由がまったくわからない。誠実に思考することは不可能なのか。それとも思考という活動そのものに必然的に内在する性質なのか。誤解して欲しくないのは、経験的事実によって主観から切り離して結論だけを導いただけであるということ。思考された対象は私の思い(心)とは無関係なのであるが、思考過程では心が関係している。わかりやすい例えで示そう。母親が子供を出産する。子供は母親のものであったが、成長すれば、自我が芽生えるに従い独立性が増して母親との距離が広がる。そうして母親と別物になるだろう。同様に思考から導きだされた結果は、それを考える頭から独立している。「思考↔︎誠実」という仮説を提出するのは私なのだが、私の思い(真意)とは関係がない。思いの方はもちろん、そんな仮説が真実であって欲しくない。これは、ほんとうの思いと思考の結果が矛盾する典型のようなもの。評価を考慮するなら、あえてこのようなことは書かない。

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