個人的な気がかり

古い精神分析(学)とつきあって長い。感覚的に惹かれるものがある。なぜだろうか。それはユダヤ人の知的営為の典型が精神分析に表現されていると信じるから。なぜそう言えるのか?それは、知る限りユングとラカン以外は、殆どの精神分析家がユダヤ人で占められているという事実にある。ユダヤ人(フロイト)が創始して、なおかつ(精神分析を)支えてきたが、21世紀に入ってからは幾分か軽視されているきらいがある。金融やビシネス或いは音楽については、ユダヤ人の功績が注目されるのに対して、精神分析について活気がないのはどうしてだろう。心理学は人気だが、精神分析は不人気だ。取っ付きにくく、少々理解しづらいし特殊な思想(技術)でもある。でも心の分析技法という範囲を超えて、ユダヤ的思考のエッセンスを内包しているという側面が、精神分析にはあると思う。繰り返すが、著名な精神分析家のほとんどがユダヤ人である。これほど精神分析家が一民族に偏っているのは見過ごすことができない。だから、ユダヤ人の学問とも言っても過言ではない。ユダヤ人の学問とするならば、ここに何かの重要な秘密があるはずと推測するのは自然なこと。イノベーションの達人が、ひとつの分野に集中しているのは精神分析において他にない。どうした理由から精神分析に集まったのか。興味深い疑問である。彼らの研究結果だけに注目するのではなく、思考過程に注目してみるのが私のやり方だ。精神分析の思考過程にはとても大切な、そして不可欠な知的要素が含まれているらしい。でなければ、賢い彼らがこれほど注目するはずもない。研究には方向がある。社会や物質を分析する外的な方向と、人間の内界を分析する内的な方向とが。もちろん外界と内界を同時に分析できた方がいい。それにしても、精神分析はユダヤ人の共通の技術として、まるで秘技であるかのように映るのは、非ユダヤ人からの印象に過ぎないのか。過大な期待か。それとも羨望か。非ユダヤ人であるユングやラカンは、やはりユダヤ人の思想とは違う。どこか知らないが違う。まとまっているユダヤ人対して、非ユダヤ人は広がっている。まとまっているとは、独立して浮いているようで、動かない大地から遊離しており、何にも依存していない印象を受けるから、完結しているように見える。対して、非ユダヤ的なるものは、まとまりがなく粘着的で、国家や組織や慣習に依存しているから、どうしても独立しているように感じられない。つまり浮遊していない!一方でユダヤ的なるものは浮遊している。浮遊しているとは宙吊りにされていること。宙吊りにされているとは、大地から離れていること。大地(母なる)から離れているとは、不安であるということ。不安であるということは神経症的であること。神経症的であるとは(ここで一巡する)、つまり精神分析の要請に遡る。キリストの磔刑の絵画を想像して欲しい。足は地上との接触を絶っている!これらは勝手な妄想であるが。

知識を得るために本を読むことは、とっくに放棄してしまった。結論にもそれほど注意しなくなった。それよりも、思考過程に重きを置くようにしている。テキストの世間的評価にも無頓着になってしまったが、思考を刺激するテキストを選択的に読むほうに主眼をおいたほうが賢明だと判断する。これも個人的な告白だが、テキストとして最も貴重だと思うものは、F・カフカの作品群である。理由は何度読んでもわからないからである。わからないとは結論が、という意味であって、思考はあてもなく迷宮を彷徨い歩きつづける。思考は活発に動くけれども結論には永久に至らない。これこそユダヤ的思考ではないか!なんとも地獄的かつ拷問的な思考!しかも余りに現代的!

情報の氾濫に溺れてしまっては身が持たない。頭にやたらと詰め込んでいるコンピュータ的人間を尊敬しなくたっていい。恥をかいても知らないという。知識の奴隷になる危険を避けるための処方箋をいつも考えている。それに誤解されることにも慣れた。体裁を無視し、誤解されることを甘んじて受け入れる。これはいい!

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