無知の知

知るとは積み木を積み重ねることではない。積み木の土台を確かめることだ。土台とはあらかじめ決まっている前提のことである。土台が泥濘みであれば、どんな積み木を重ねても無駄になってしまう。私たちは、何かを前提した上でしか生きられない。ここで前提とされていることに注意を向けることが知ることの第一歩になる。しかし、前提があらかじめあるという事実を知らないことには次に進めない。なにげなく喋りなにげなく行動しているが、ここには原因がある。原因は知っているというが、原因を知ろうとするときに自分でも気が付かないような前提のもとに知ろうとしていることは、十分に注意すればわかる。つまり知ろうとする時点においてすでに曇らされてしまっているのだ。知ろうとするときにそれと同時に付き纏うものがある。そして知ろうとするときにこの付き纏われたものと一緒になって知るという作業をしている。知ろうとするときに前提も同時に知ってしまう。これでは純粋に知ったことにはならないではないか。例えば、眼球を使わずしては見ることができないようなものだ。何かに囚われながら知ってしまうのだが、なにに囚われているのかを知るのは困難である。たとえそれが判明したとしても、完全ではないかも知れない。知ろうとすれば、どうしても知ろうとする行為の前提も親鳥の後のひよ子の如くついてきてしまう。これからわかるのは、知るとは甚だ怪しいといわざるを得ないという事実である。また知っているという人も甚だ怪しいということになる。適度に信用するのが賢明だ。すべからく私たちは前提と共に知るのである。哲学的思考とは、この前提をいまいちど反省しようとする試みである。つねに思考における出発地点の考察になるため常識以前の研究となるから、常識的な考えでは理解しづらくなる。どうしたらいいのかというのなら、読みかたそのものを変化させるのが必須であると言おう。これまでのような読みかたでは理解できないようなことが書かれてあるので、どうしても自分の思考を変容させながら読むことを強いられる。その上で理解したのならもう捨ててしまってもいいだろう。そうしないと哲学という学に飲み込まれてしまうからである。目的はここにはない。思考の変容に成功したならば、さらに別の有益な刺激のほうに向かい、これまで培った考え方の更なる破壊に挑戦する。非常な労力によって獲得された思考とて、ひとつの形式に過ぎないのだから、ここは潔く破棄してしまうほうがいい。というのも、ここに安心してしまい、この場の心地よさに安住するほうが楽だから。この壁を乗り越えようとしない人のほうが少数であるはずだから。けれど多数よりも少数のほうに価値があるのは明らかでしょう。

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